3.11(土)と3.24(金)のSSTです。
3.11(土)は前回参加してくれたびさいっ子の一人がお休みでした。また、新たに参加してくれたびさいっ子たちがいます。新たに参加してくれた子たちが戸惑うかも知れないので、前回とは全く違う内容にしてしまおうか迷いました。そこで、今回は、テーマを「一つのことについて、深くふかく考えてみよう」にしてみました。そして深く考える材料を「トモダチ」(友達)にしました。(3.24(金)も同じ内容をみんなで考えました。)
『真のトモダチ』、『クラスのトモダチ』、『相手や自分にとって都合がいいだけのトモダチ』、『ゲームだけのトモダチ』あるいは『SNSでつなっがっているだけの顔も知らないトモダチ』など、「トモダチ」とは幅広く、ある意味とても便利なことばですが、自分自身の中に誤解を生じさせる危険な言葉でもあるように思えてなりません。
実際、過去の話ですが、びさいっ子の中に、「一度でも遊んだらトモダチ・・・だからクラスの子は全員トモダチ。顔は知らなくてもゲームを一緒にやった子はトモダチ」と教えてくれた小学校高学年の子がいました。
まず、『クラスのトモダチ』、『ゲームをするだけのトモダチ』など、これらは本当に「友達」だろうか?と投げかけてみました。10人の内4人の子が手を挙げて「友達だと思う」と教えてくれました。
他の子は、手を挙げようか迷っている、あるいは確信を持ってそうは思わないといった様子です。
次に、ほとんどの大人が“まあ、そうかな”と合意してくれるであろう「友達」の定義(?)をフリップにしたものをびさいっ子たちにみてもらながら進めました。
その中のとくに『わがままを許し合える』、『相手の幸せや悲しみを自分のことのように思える』、『お互いを高めあえる』はびさいっ子たちに強く届いた気がします。
ここで、びさいっ子たちに感想を訊いてみました。最初に手を挙げてくれた4人のびさいっ子は、全員考えが変わったそうです。
何故、気が変わったのか、そんなに簡単に変えていいのか、とちょっと意地悪な投げかけをしながら、こんどは、ゲームでだけで繋がっている二人の子A君、B君を想定して話を進めました。いつものようにゲームをしている二人ですが、ふと気づくとB君が元気がありません。それに気づいたA君がゲームの手を止めてB君に「どうかしたの?」と声をかけました。その後B君は自分の悩みをA君に打ち明け、A君も自分のことの様に考え、悩み、会話を続けました。いつしかA君も自分の考えや相談事をB君にするようになりました・・・
さて、この二人は、今「友達」かな?とびさいっ子に訊いてみると、全員”うん、うん”と大きく頷きました。では、どこで『ゲームをするだけのトモダチ』から『友達』に変わったのでしょうか?B君がA君に相談し、その相談にA君が真剣に寄り添ったから?それとも二人は始めから何となく気の合う、ひかれあう「友達(?)」だったのか?
ここまでで時間がきました。最後に深くふかく考えることの大切さが、少しは伝わったでしょうかと確認させてもらって終了しました。
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